#共感すること
- toshiki tobo
- 2023年8月14日
- 読了時間: 3分
ベッキーがベッキー♪♯として音楽活動をスタートさせた2009年。その夏、僕は中学最後の吹奏楽コンクールに向けて蒸し返す体育館の中で楽譜に向かっていた。両手に抱えたバリトンサックスは溶けそうなほどにほてっていて、額の汗を拭いながら真っ赤な顔で楽器に息を吹き込んでいた。湯気が立ち上る頭には皆揃って冷えピタをつけ、関東大会出場に向け懸命に練習に励んでいた。冷えピタは気休め程度のほどこしではあったけれど、あの連帯感がたまらなく気持ちよかった。暑い、熱い、夏だった。
愛想笑いを覚えて久しい僕は、いつしかそれをいいことに、笑ってごまかす癖がついた。笑顔でいることは願望であって、処世術でもある。愛想笑いに味を占めた僕は、それを濫用し、時折不自然なタイミングで笑ってしまうことがある。というよりも、知らずのうちに口角があがっていることがある。ひとに指摘されてはじめて気づくものだから対処に困る。これはいかんと思い、シリアスな時はとことんシリアスな面持ちでその場に参加することも最近覚えたが、かえってそれも不自然な時があるらしい。もともとの顔の作りで、感情がデフォルメされがちな気もする。これは僕の中の仕方のないことの一つに数えることにした。
共感しないと一人きりになってしまうことを小学生の頃に学んだ。そう強く思わされる出来事に幾度となく対峙してきた。その体験を経て、わかるはずもないひとの心を得ようと躍起になった時期があった。そうしたら、図らずもひとの気持ちがわかるようになった。時には憑依するような感覚に陥る時さえある。映像作品をあまり得意としないおもな理由がこれだ。感情移入で疲れる。もちろん、まったく事実と異なる解釈をし明後日の方向へ外すこともある。
僕はひとが好きだ。生活の中に自分以外の命を感じながら生きていたいと思っている。空気と同じように命を感じていたい。恋愛においても同じだというようなことを話すとプラトニックだと言われる。実際に僕もそう思う。そう言われた時、うぶで少し恥ずかしく思う。けれども、それもまた事実。これも僕の中の仕方のないことの一つに数えることにした。
共感は辛いことでもあるけれど、気持ちのよいことでもある。あの夏の体育館での思い出がそう教えてくれた。結局、関東大会へは行けなかった。みんなで咽び泣いた。悔しかった。でも、あの時の連帯感は気持ちがよかった。日常にあらわれる色んなかたちの命と、ぶつかりながらもできるだけ寄り添って生きていきたい。共感することによって僕が得るのと同じような喜びを、誰かにも感じてほしい。
週末ふと涙が込みあげ、咽び泣くことがあった。あの夏と同じで、悔しさからだった。ふと肩の力が抜けた時に、唐突にやってきた。自分を追い詰めるような生き方が癖になっている。でも、それが好きなんだと思う。そして、その先に希望があるからそうすることをやめられないのだとも思う。そうでなければ、誰が好き好んで休みの日にまで自分自身にタスクを課すものか。でも、塩梅の加減は必要だと思う。
夏は友人などからの誘いが多い。性格も情緒も相も変わらずサグラダファミリアの僕にも、一緒に過ごしてくれる人がいることに、また泣ける。本当に嬉しい。何かあっても、そうでなくても、心だけでもそばにいたい。
またサグラダファミリアのような文章にしてしまった。

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