# 受け取らないこと
- toshiki tobo
- 2023年5月13日
- 読了時間: 3分
少し前に両親のことを聞かれることがありました。変わり映えのないごくごくありふれたエピソードを、なかば懐かしくお話しました。「愛されて育ったんだね」。ふと、そう言われました。その時はなんだかぼんやりしていましたが、時間が経つごとに、その言葉は紛れもない優しさとして心の中でどっしり構える逞しい宝物となりました。この言葉を受け取れて本当によかった。
当たり前のものとして受け取っていたものが実はそうではない、ということを三十路手前にしてやっと心得てきました。両親からの愛情です。僕の両親はとにかくまじめで頑張屋です。嘘をつかず、ズルをせず、怠慢とは無縁の生き方を背中で示してくれました。そして、僕はその姿を目に焼き付けてきました。大層不器用な父と少しおっちょこちょいな母は、どこからともなく誕生した少し風変わりな僕を、とても苦労しながら手探り状態で育てたのだろうと想像します。しかし、それは当たり前なことではないことを知りました。僕が望んだ愛情を両親はずっと注ぎ続けてくれていたのです。
しかし、その全てを正面から受け取ることができないのが子供といったところでしょうか。都合よく愛情を受け取っているくせに、感謝ができないなんて親不孝な子供です。実家に帰れば両親に説教を垂れ流し、帰省した息子という座にあぐらをかき悪態をつくこともしばしばです。そして、東京の自宅に帰った時、我に戻るのです。「なんてことを言ってしまったんだ」と。それでも、やはり両親は強いものです。僕の口から出てきた目も合わせたくない言葉を「そんなもの」と一蹴するのですから敵いません。流すというより受け取らない選択をしているように思われます。が、実際にはどうなのでしょうか。いや、そんなことはないと思います。しっかり傷ついているはずだと思います。謝らなくてはなりません。
不要なものを手放すことは大切なことです。しかし、その前に、それを受け取らない選択をすることが重要であることをつい先日学びました。自分に向けられた不当で理不尽な怒りはついつい受け取ってしまいがちです。そして、しっかり凹むのです。しかしながら、そもそもそれを受け取らない選択だってできるはず。押し付けられた贈り物を受け取り拒否ができるように、言葉だって受け取らない選択ができるはずです。受け取らなければそれは相手のものとなります。苦しむのは自分ではなく相手です。
話を戻しますが、僕の言葉を受け取っていないように思われた両親は、受け取らない風を装いながらもしっかり受け取り、僕自身にもしっかりその痛みを返送してくれていたように感じます。この痛みは僕が二度と忘れてはならないものとしてしかと受け取りました。送る必要のない(送ってはならない)ものは自分で処分しなければなりません。
実家を離れてから丸10年が経過しました。僕の頭の中にいるのはいつだって一緒に暮らしていた時の両親です。それ故に、時々会う両親が急に年老いて見えてしまって仕方がないのです。しかし、それは僕にも言えることであって、10年前はまだ学ランに身を包むような年頃だったのにも関わらず、今や税や社会保険料の値上げを憂い、それらをやむなくビールで胃へ流し込むような歳になりました。僕だってしっかり加齢しているのです。だからこそ、ありのままの今の姿を受け入れ、両親の思う幸せをともに望まなくてはなりません。そうしなければ、誰も幸せになれない。大好きな両親だからこそ、少しでも長く楽しい時間を一緒に過ごしたいと願っています。
昨年は記憶がテーマだったような気がしますが、今年は愛情がテーマになりそうです。いや、一生のテーマな気がする。
愛情は素直に受け取り、与え合いたいと思った僕でした。

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