#強く、大きな、炎
- toshiki tobo
- 2024年8月7日
- 読了時間: 4分
更新日:2024年8月8日
小さな頃実家で一緒に暮らしていた犬のことを唐突に思い出しました。「しん」という名前の犬でした。赤褐色の荒々しい毛並みの甲斐犬でした。
しんという名前は父がつけました。地元山梨の戦国武将である武田信玄からとった名前だと聞きました。どうせなら「信玄」と付けてやればよいものを「しん」としたのは、ぶっきらぼうな父なりの工夫だったのでしょう。
しんが餌を食べている時に餌の入った器に触ろうとして手を噛まれそうになったことを覚えています。餌の時間にしんのそばに近づこうとする時は決まって父や祖母が目を光らせていて、手を出そうとすると金切り声で怒られたものです。あまりにも美味しそうにガツガツと食べるもんだから、どんなにおいしいものなのか気になって仕方がなかったのです。
しんがいつ家にやってきたのか僕は知りません。少なくとも僕の記憶の一番古いところにしんはもうすでにいたので、僕が生まれる前にやってきたのだと思います。そういえば、しんの他にもう一頭いました。「コロ」という名前で、確か柴犬だったと思います。コロは僕が小学生に上がった時にはもう亡くなってしまっていたような気がします。おとなしい犬だったような記憶がありますが、すでに老犬だったのかもしれません。
しんは時々家出をしました。もともと番犬として外飼いをしていたので、チェーンを首輪に繋いでいました。そのチェーンがが何かの拍子に首輪から外れたり、散歩後のリードからの付け替えに失敗したりした一瞬の隙に、好奇を逃さんばかりに走り出して行ってしまいました。でも、1日も経たない内にお腹を空かせて帰ってきました。単純でかわいい犬でした。
家族旅行の時は、しんの世話係としていつも祖母が留守を預かっていてくれました。そのため、祖母も含めた家族で、宿泊をともなう旅行に出たことはなかったかもしれません。家族旅行は決まって、車で出かける僕たちが見えなくなるまで、祖母がずっと手を振って見送ってくれました。その一時間ほどあと、出番の少ない父の乗用車で姉と僕が車酔いを起こすのは毎度の定番で、前後左右に頭や体を揺らしながら母の介抱を受けたものでした。
ついつい懐かしんでしまいましたが、話を戻します。しんは僕が小学4年生か5年生の頃亡くなりました。たしかそうだったと思います。小学6年生の頃にはもういなかったことは覚えています。寿命でした。次第に元気がなくなり、晩年は餌のなかに薬を混ぜていたのですが、しんは薬の匂いを嗅ぎ分けて、餌に口をつけようとはしませんでした。痩せ細り、衰弱し、息を引き取りました。
実家にある畑で火葬をしました。季節は初夏だったと思います。いや、春だったような気もします。違う、秋だったかもしれません。あんなに強いショックを受けたのに、もうこんなに記憶があいまいになってしまっている。人の記憶は本当に儚くてあてにならないものですね。
父が火葬のすべての準備をし、僕と姉はしんの周りを取り囲む大きな炎をただただ無言で座りながら眺めていました。陽が傾き出した夕刻だったと思います。炎は弱まることなく燃え続け、陽が沈むごとに、より一層赤く、強く、そして大きく、燃え上がりました。その炎の強さに元気だったころのしんを見たような気がします。
すっかり陽が沈んだ頃、その場を離れようとしない僕たちを母と祖母がかわるがわるに夕飯に呼びに来ました。その時の二人の顔は覚えていませんが、炎を前にしてやはり足を止めて見つめていたような気がします。翌日になるとすっかり炎は鎮火し、残ったのは真っ黒な燃え殻だけでした。よく晴れた日のことでした。
そのあと、スコップを持ってやってきた父が、燃え殻のなかから遺骨を見つけ出し、畑の隅に埋めました。
しんのことが大好きだったのに、あの頃の僕は友達と遊ぶことや、外でサッカーをすること、習い事に夢中でした。毎日のようにしんを目にしていたのに、一緒に何かをしたような記憶がほとんどありません。忘れてしまっているだけかもしれません。あんなにかわいい犬だったのに。もっとたくさん遊んであげればよかった。
そんなことを思ったとて、すべては後の祭りです。しんはもう二度とあらわれることはありません。失った命は二度と戻らない。
さて、今年も8月6日を迎えました。そして、9日、15日といくつかの忘れてはならない日を迎えます。79年前、燃え盛る炎を前に、人は何を思ったのでしょうか。
僕はもう二度と炎の前で悲しい涙を流したくない。
〈訂正〉
しんの名前の由来につき、姉より上杉謙信の「謙信」節の提供がありました。10年後あたりに父に答え合わせをします。

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