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腐っても神

  • 執筆者の写真: toshiki tobo
    toshiki tobo
  • 2021年1月25日
  • 読了時間: 2分

幸せなときとそうでないとき、

どちらの方が多いかと聞かれたら

正直わからない。


でもそれはひたひたに幸せの中に

漬けこまれているからいえるのかもしれない。


僕は空港が好きで、先日ひょんなことから

羽田へ行ってきた。

人はまばらで、飛行機もほとんど飛んでいなかった。

友達とぷらぷらして、ご飯を食べて、

どうでもよいことを話したりなどしていた。


そのあと神社へ行こうということになり

近場にありそうか探していた。

羽田空港の周りは以外にも稲荷神社がいくつもある。

調べてみたら、水害から守るためとのこと。

そりゃそうだと思った。

以外ではなく、当たり前だ。


穴守稲荷神社というところへ行ってみた。

調べてみたらちょっと有名なよ模様。

拝殿では巫女さんが舞を踊っていた。

初めて見た。それはとても美しかった。





稲荷神社というけあっていたるところに

キツネがいた。それはもうたくさん。



初詣は、たまたま神社に通りかかったときにする程度なので、

この日がきちんとした初詣だった。


今が幸せかはわからないが、

とりあえず昨年幸せに過ごせましたと

うやうやしくお礼などをしてみた。


初詣に行かずとも1年の内に何度か

お参りをすることがある。

なぜかはわからないが、挨拶だったり

お礼だったり、時にはお願い事など

邪なことをしてみたりもする。


しかし、何かが良くなったり、何かが変わったり、

そんなことはない気がする。

入院する年はしっかり入院するし、

うまくいかない年は何一つうまくいかない。

友達と仲たがいを繰り返す年もあった。


でも決まってお参りをする。

お参りすることをやめたりはしない。


心の気休め程度に考えていても

どこかでその存在を信じているし、

神社の思うつぼだとわかっていても

賽銭を投げ入れてしまう。


きっとどこかで信じているのだろう。


自分の努力ではどうにもできないことは

結局のところ目には見えない何かにすがりたくなる。

神にもすがる~というやつだ。


宗教や信仰の前では僕らは自らの無力を

思い知らされる。


だけど、何かを信じることをやめないのは

「自分を」「自分に秘めた何か」を

信じてやまないからこそだと思う。

「自分ならやれる」と知っているからだと思う。


結局、「無力じゃない!」と

わざわざ神の前で宣誓してるに過ぎないのかもしれない。


こうやって人は神の前では全面降伏で

おめおめ搾取されるのである。

で、性懲りもなくまた神社へいく。


腐っても神。

今年はあと何回お参りするのだろう。


お粗末様でございました。

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