#型破りとでたらめ
- toshiki tobo
- 2023年9月3日
- 読了時間: 3分
更新日:2023年9月17日
書道のシーズンが始まりました。年間4つの公募展に出展するのですが、そのうち3つは秋から冬に開催されます。11月と12月に地元山梨の公募展。そして、年明け1月に全国展である所属会の公募展がとり行われます。先日、1月の公募展用に練習した作品を先生へお送りしたところ、県内公募展の作品を先に書いてください、と一蹴されました。そりゃ、そうだよな。
展覧会によって規定の紙のサイズが異なります。僕が出展する部門は横二尺(約60cm)、縦六尺(約180cm)あるいは縦八尺(約240cm)の画仙紙を用います。県内展は縦八尺、全国展は縦六尺が規定サイズで、現在専門としている一行物では、縦六尺に三文字、縦八尺には四文字を揮毫します。
型破りとでたらめはまったく異なる、という趣旨の指摘を毎回先生から受けます。僕の所属会は数ある書体の中でもとりわけ行書や草書を専門としています。それゆえ、僕自身の作品も同様に行草の書体を用います。作品をつくる中で注意をしなければならないのは誤字です。辞書をひきながら正しい型を月例の課題で頭と体に叩き込み、必要な線とそうでない線を頭に入れたうえで、作品作りに取り掛かります。とくに草書の場合、点の有無や線の角度だけでまったく異なる漢字になってしまい、誤字判断をされることがよくあります。つらつらと文字をつづけて書く流派もありますが、先生は余計な線を省き、実線はなくとも筆の運び方で文字同士のつながりを表現する書風を好みます。僕は先生のメリハリがある、几帳面で、真面目な作品がとても好きで、かれこれ20年が変わらず支持しています。
決まりがある中でどのように紙上に表現をするのかを模索しつつ、実際に墨を落とした時、そこに予期せぬ意外性や偶然性を見出せたときに書道の面白みを感じます。題材の中でどの文字を見せ場にするのか、どの線にフォーカスを当てるのか、重心をずらしたり、余白の場所を変えたりなど、一つの題材でも表現の余地はいくらでもあります。ある程度文字が書けるようになってきた最近は自分が書いた作品を観察したり考察したりする時間が増えました。ただただひたすらに筆を握り書き込むことも時にはしますが、いたずらに紙を消費したとて、書いた分だけよいできになるとも限りません。一度筆から手をはなし、時間をおくと、書けなかったものがすんなり書けるようになっていたということもざらです。不思議なものです。
書道の世界は年功序列とヒエラルキーの世界です。その傾向は年々薄くなってきているとはいえ、現在も続く変わらぬ事実です。展覧会の結果にやるせなさやもどかしさを感じることもありますが、この道で認められ自分の名前に箔が付けば、できることも増えるのではないか、と希望を抱いて筆を握っています。何よりも、題材として用いる古事成語や漢詩はいつだってモラトリアムの僕へ生きる指針を与えてくれます。
自分の思うままに紙上に墨を落とすのはとてもよいことだと思います。ただそれが、でたらめで、書を模したパフォーマンスであったとき、それは文字への冒涜ではないか、と一石を投じたくなる気持ちに駆られます。少し古風で硬い考えかもしれませんが、書道や花道、茶道、武道など、仮にも道がつくものを志すのであれば、基礎となる土台を形成したうえで、型破りの表現方法に新たな可能性を見出すべきだと思っています。
先人たちが積み重ねてきた経験や歴史は絶対に蔑ろにすべきではありません。目指すべきはいつだって温故知新であってほしいと願っています。

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